はがねのようせい

う~ん。私のそばには妖精がいて。

妖精と動物園 その2

ギャーギャーギャー

ヒッヒッ ヒヒヒ 

ギャーギャーギャー

 

檻の前で私とハーさんは唖然と立ち尽くしていました。

そのチンパンジーは私たちの目の前で檻をガシャガシャと揺らしながら、不満すべてを世界すべてに伝えるように叫び暴れている。

「ほかのヤツは一切叫ばないのにねえ。あいつだけ。迷惑だよねぇ」

妖精のハーさんがやれやれとした顔で言いました。

もう一度言いますが、ハーさんの顔は私には認識できない。

ただ、認識できないだけで、私にはわかる。

ハーさんが言ったことはその通りで、この檻には暴れ叫ぶヤツを含め、四頭のチンパンジーがいるのです。

その暴れているヤツに対する態度もそれぞれで、無視して背中を向けているのもいれば、怯えるように膝を抱えこんでいるのもいる。あとの一頭は歯をむき出して「いい加減にしろよ」と言っているみたいだ。

暴れているチンパンジーは私達の後ろ、その先を見ているようで、その目には何が見えているのだろうと私は振り返ってみます。

そこにはおじさんたちが数人、動物園の係の人に連れられて説明を受けているような光景があった。

それが何なのか知ろうとは思わなかったけれど、とにかく暴れるチンパンジーは、その方向を見て叫んでいるようでした。

「不満は叫ぶに限るよな」ハーさんがなんか、納得して言った。

「まあ、貯めこむよりはね。出来れば」

私は関心があまりないという風に装って、先に足を進めるのです。隣のヤギの小屋に。

私はヤギに話しかけた。

「出来ない人だっているけどね。ね」

「めえ」

と、ヤギが答えます。

 

ハーさんアライグマの前をチョコレートを齧りながらギターをブラブラさせて歩いてゆく。

「でっかいネズミはまだなのかさ」

私はサラダあられを口に入れ、ポリポリと答えます。

「この先。ペンギンの横だったと思う」

「おー」

ハーさんがギターを抱えて走り出した。

 

でっかいネズミの小さいのが二匹、お乳を飲んでいました。

温泉と化した湯気の上がる水場の横、カピバラ夫婦には子供が生まれていたのです。

小さいカピバラを見て私は鮮明に思い出す。

そうそう、あのスマホの写真を撮った時は雄雌二頭だったんだ。

音のしない電気ギターをシャランとかき鳴らし、ハーさんが跳ねている。

「オーケーベイビー!リアルベイビー!シェキナベェビー!」

なんか古いロックだけれど、叫びたいのはよく分かる。

口には出さないけれど、叫びたいほどカワイイのです。

展示場の柵に手をかけて顔を突き出し見ていると、その横、少し先、柵の陰になって私たちからは死角になっていた場所に若い女の人がスマホを片手にカピバラたちを撮っているのに気が付きました。

きっと私たちより早くいたのであろうその人は、両手でスマホを突き出してずーっとカピバラたちを捉えている。

私は声を潜めて強く言う。

「ハーさん!うるさいよ!」

ハーさんもその人に気付きました。

ハーさんも声を潜めて私に言います。

「ずっといるのかな」

その人に気付いたのは今なので、まったく根拠は見つけられないのですが、確かにずっとそこにいたんだろうという確信が何故かある。

「一日見ているんだよ」

ハーさんが決めつけた。

私はサラダあられをカバンにしまいハーさんとヒソヒソ話を続けます。

「なんかネットにあげるんだろうか」

「そうだね。そうかもね。でもなんか、顔がつまんなさそうだねえ」

私もそう思った。

思ったけれどハーさんのように口には出さない。

そうだとしても口には出さないのが恩情というものでしょう。

ともかく、その人のスマホに映り込まないように気遣いながら、ハーさんと私はカピバラ親子をしばらく見つめました。

子供の世話で忙しいお母さんカピバラを横にお父さんカピバラが温泉に入った。

なんだか、ぼーっ、とした顔で気持ちよさそうだぞ。

「世の中どうでもいいやぁ~。温泉があればどうでもいいやぁ~」

ハーさんの口がお父さんカピバラの考えている事を伝えてくれました。

 

動物園の外に出た私とハーさんは塗装の剥げた木のベンチに座って、アンパンを半分ずつ分け合います。

ハーさんがしみじみと言いました。

「世の中にはいろんな人がいるねぇ」

あの女の人は私達がカピバラの前を去る時もじっとその展示場の前に佇んでいたのです。

「毎日いるのかもよ」とハーさん。

私は面倒くさいという体で済ませたい。

「人の勝手じゃん」

ハーさんはあのスマホ女にだいぶ興味をそそられたようで。

「そうだけど。人の勝手だけどさぁ。いろいろ考えてみなよ、面白いじゃない」

うん。面白いことは面白い。あの女が不幸だったらなおさら面白い。

でも私はこう言った。

「あの人はあれで楽しいんだよ。きっと」

私の口調に嘘を感じたのでしょう。ハーさんはジロッと視線を突きつけて来た。

「そうかなぁ」

「人はみんなそれぞれなの!他人が理解出来なくったって、それが何だって言うんだよ」

ハーさんは最後のアンパンを口に放り込むと、感心したように空を見上げて言いました。

「ほうん。なるほど」と。

ありきたりのことを言ってしまった私は少し気まずい。

「な、なんだよ。あ、馬鹿にしてるんだろ?」

ハーさんはキョトンと私を見つめます。

「してないよ。なんで?」

その目を見返せない私は、拠り所無く立ち上がる。

「え?あ、そうだ、そうそう、動物にも……」

立ち上がった私を無視して、アンパンを食べ終わったハーさんは私の言葉を遮り、ギターをシャランと鳴らすと煙草を取り出した。

「昔はこういうところに灰皿あったのにねぇ」

ハーさん、やれやれと火をつけます。

私は座り直し、あせってあたりを見回した。

こういった公共の場所でタバコの煙を立てていいのかわからないので、人が来ないか気になったのです。

ハーさんは急いで三回吹かすと携帯灰皿に煙草を消しました。

「好きな事はするけれど、人に迷惑はかけません」

偉そうにそう言いやがる。

どの口がそう言うのだ。私は言ってやった。

「私も人です。私にはいいのかよ。迷惑かけても」

「えー?めいわくぅ~?迷惑かけてるぅ~?」

へへへ。と笑ったハーさんはウーンと伸びをすると、ギターを抱えて立ち上がる。

「動物にもいろんなのがいたねぇ。さあて、おうちに帰って風呂に入ろう」

さっき言おうとしていた私のセリフがハーさんの口から出た。

くそ。こいつめ。

私は、悔しさを堪えて素直に言うのです。

「動物園、楽しかったな」

「あ、今それ言おうと思ってたのに」

ハーさんがそう言った。

 

さてさて。そうそう。

家に帰って。

一人お風呂に入って。

ぼーっ、としよう。

世間の事なんかどうでもいいや。なんて。

そんな事を思いながら、ぼーっ、としよう。

 

 

◎お読みいただきありがとうございました。

 

妖精と動物園 その1

妖精と公園を歩く。

太陽が出ていて、風が凪いでいた。

 

ここのところ、ちゃんと机に向かうことの出来ている私は、意外と毎日をキチンと過ごしているのです。

まあ、そう思っているのはきっと自分だけで、社会から見ればあからさまにドロップアウトなのでしょうけれど、私の生き方に対する自分の評価というものは十分に合格点なのです。

ハーさんも「それでいいじゃん」と言ってくれているし。

人がどう思おうと、とにかく私は今日も午前中からパソコンに向かって物語を書いています。

書いたものが褒められたらいいなぁ、とか、天才!とか言ってもらえる様になんていうスケベエ心なるべく持たないように。

だってスケベエ心はイヤらしいですもんね。ましてやそれを人に知られたら恥ずかしい。

私は顔に出るし。

「でもなぁ」と、そこで私はキーボードをたたくのを止めて考えてしまう。

生き物にはスケベエ心は必要だしなぁ。スケベエな事思っちゃうのもしょうがないかぁ。と。

近頃、開き直っている私なのでした。

ハーさんの影響も少しあるのかな。

いいか悪いかはよく分からない。

 

そのままひと段落していた私が伸びをすると、後ろから声が聞こえました。

「いいか悪いかなんて、そんな決めつけなくていいじゃんか」

ハーさんだ。。

あれ?今声に出して言ったっけ?と不思議に思って振り返ると、私のスマホをいじくっているハーさんが立っていました。

友達の少ない私にはめったに電話もかかってこないし、SNSなんかもやっていないので、スマホにプライベートが一切ない私はそれを誰かにいじられても慌てる必要がまったく無い。

「これなに」

写真のアプリを開いたハーさんが、一枚の画像を私に見せつけます。

そこに映っていたのは、顔の大きいモジャモジャした変な生き物。

「あー?」

振り返って私はその写真を見つめる。何だっけ。

正面を向いてこっちを見つめる毛むくじゃらの大きな動物。水に浸かっているぞ。

ハーさんの手からスマホを奪い取り、その前後の写真を見てみます。

思い出しました。

動物園。カピバラ

何年か前、始めたスマホを持った私は、そのカメラ機能を使ってみたくて、被写体を探していたんだ。自撮りなんかするつもりは一切なかったので、それなら、と家からそう遠くない動物園に向かったのです。

動物たちはたくさんいたはずなのに、カピバラさんの写真しかない。

他にもサルやアライグマなどがいて、それらを撮影した記憶はあるのだけれど、消してしまったのかな。

とにかく何故かカピバラさんだけはスマホの中に居座っている。

スマホを私に渡したハーさんが言います。

「なんなのよ、それ」

カピバラ。動物園」

カピバラ?そう言う名前なの?なんか気持ち悪いね」

「でっかいネズミらしいよ」

「げ」

 

でっかいネズミと聞いて、ハーさんの目がキラキラしだしたぞ。

そう、実際のその目、その顔は靄に包まれたように、私にはよく見えないのだけれど、確かにキラキラしだしたのです。

あちゃー。言いだすぞ、こいつ。

机に向き直った私の背中にハーさんのワクワクした声が響きます。

「よし!見に行こう!スグ行こう!」

「行かない」と言っても聞くようなハーさんではありません。

「2時間待って」

断り切れなかった私が悪いのでしょうか。

30分と待たず、私たちは家を出ていたのでした。

 

うるせえんだよ。ハーさんは。

何かが気になると、少しも待つことが出来やしない。

今日はせっかくいい調子で小説を書いていたのに、人の都合はまったく無視して「早く早く」とせかしてきやがる。

あー、もう。まったく。

私はそんな環境でモノを書けるほどの才能は無いのです。

 

軽自動車にハーさんを乗せて、私達は動物園へと向かいました。

ハーさんはギターを抱えて来た。

止まった交差点で、私はハーさんの顔を睨んで言ってやる。

「迷惑になるだろう?動物園でそんなの掻き鳴らしたら」

「持ってるだけならいいんでしょ」

顔を反らしたハーさんがそう言いました。

そんな訳あるはずない。絶対掻き鳴らすに決まっている。

点灯している信号の赤を見つめて私はそう思うのです。

 

動物園のある大きな公園に着きました。

平日の昼間、駐車場はさすがにガラガラ。

ここから10分位歩くのです。

「チョコレート」

ハーさんが売店を見て呟いた。

そうだ。お昼食べていない。

私は売店で板チョコとアンパンとサラダあられを買いました。

おー。ちょっとワクワクしてきたぞ。遠足だ。

 

太陽が私とハーさんを照らしている。

冬は終わったのかな。

柔らかい風。

私の春一番は今、私の頬にあたるこの風にしよう。

 

その古い、昔ながらの動物園は規模も小さく、狭い檻の中に居る動物たちが大半です。

それでもゾウさんがいて、檻に入り切らないという理由だけで外に出してもらっている様な巨体は、入った正面、私たちを迎えてくれた。

「あ、ウンコ!」

ハーさんが叫んだ。

私は呆れる。

なぜ最初にウンコを見つける?

 

「ウンコ、ウンコ、ウンコ!」

ハーさんがウンコを数えている。

ソウさんが「そう、そう、ウンコ。ウン、ウンコ」と長い鼻をブオンと振った。

 

 

◎お読みいただきありがとうございました。

妖精がいない町 その2

妖精のいない町。

私は文房具屋さんに入る。

 

バスで街に出て来た私は、用事を済ませ、老舗のデパートの地下食品売場にいるのです。

洋菓子の冷蔵ケースの前で、私はプリンを見比べている。

今となってはどうでもいいのだけれど、いいからとりあえずプリンを買って帰ろう。

だって、待ち合わせ場所のカフェのメニューにプリンは無かったから。

食べる事が出来なかったから。

そう思って。

カフェで私はコーヒーだけを注文して、私に、自分の所で仕事をしないか、と誘ってくれるその人の話を聞いていました。

熱いうちに飲み干してしまいたいおいしいコーヒーとその人を目の前にして、カップの底が見えてしまう事に気を使った私は、冷めるのを覚悟でカップを掴む回数をなるべく減らし、その遅い時間の流れに耐えていのです。

私が返事を濁していると、その人は、一度見に来てよ、と、仕事場の場所と日時を指定して店のレシートを手に席を立って去りました。

その人の提案を「イヤだ」といえなかった私は、コーヒー代が浮いたのをいいことに、プリンを買って帰ろうとしているのです。

 

プリンの2つ入った洒落た紙袋を下げてバスの停留所に着いた私の目の前に、道路を挟んだ向こう、古い引き戸の小さな文房具屋さんがありました。

そう言えば、この裏に小学校があったものな。

その小学校の脇を歩いてきた私はその文房具屋さんがそこにある事を納得します

一昔どころか二昔くらい前の看板は小学生以外のお客さんがその引き戸を開けて入ってくるのを、もう諦めているようでした。

 

「筆記具も持ってこなかったのか?」

カフェでそう言われたことが蘇ります。

私はちゃんと「すみません」と言った。

仕事を世話しようとしてくれるその人にはきっと失礼な事だったのでしょう。

筆記具を持参して人に会う。そんな事、私は気付かなかった。

私は自分に言い聞かす。

恥ずかしいなんて思うんじゃない。しょうがないじゃないか。と。

バスの時刻表を見ると、あと15分ほどの待ち時間がありました。

そうして私は道路を渡り、文房具屋さんの引き戸を開けたのです。

 

からん、からからから。

思ったよりも綺麗な引き戸の音にホッとした私の体を店の薄墨色の空気が包みます。

その空気に、私は店内を落ち着いて見る事が出来ました。

店内には誰もいない。

私は見つけた鉛筆の棚に近寄ると。数少なくなっているHBを取り出そうとして止め、まだたくさん残っている4Bを一本取り出します。

そうさ、ほそい字なんか書きたくない。

柔らかい、濃い鉛筆で字を書きたいんだ。こまかい文章なんか書かないんだ。

4Bを握り締めていると、奥からおばさんが出てきて、笑顔で「いらっしゃいませ」と声をかけてくれます。

「古いお店ですね」とか「お一人でやっていらっしゃるのですか」とか、私は何か話したかったのだけれど、自分がそんな柄ではないな、と思い当たり、

「鉛筆削りはありますか?あの、小さなやつでいいんです」と用件だけを言うのです。

おばさんは「ハイハイ、ええ、ええ、筆箱に入る大きさでいいのね」と、きっと小学生にもそう言うのであろう口調で小さな鉛筆削りを見せてくれました。

私はおばさんの指につままれた鉛筆削りを見つめて答えます。

「ああ、丁度いいです」

何が丁度いいのか自分でも判らなかったけれど、なんだか本当に丁度よさげに思えて、私はおばさんの指からそのブルーの小さな鉛筆削りを受け取ったのでした

 

帰りのバスは、来た時のバスとは違い、最新型の今どきのバスで、座れる余裕も少しあったのだけれど、見知らぬ人の隣に座る事に気が引ける私は、そのまま立って揺られてゆきました。

手にはプリンの紙袋と、その中に一緒に入れた小さな白い紙袋に包まれた4B鉛筆とブルーの鉛筆削り。

早く鉛筆、削ってみたいな。

バスが空いていたら、素早く後ろに座って鉛筆を削ろうと思っていたのですけれど、これだけ人がいると、見知らぬ人を横に鉛筆削るなんてちょっと恥ずかしい。

さっき「イヤだ」と言えなかった私は家に帰って鉛筆を削るという行為に希望を持ち、それに勇気づけられ、こう思うのです。

 

さっきの話やっぱりイヤだな。イヤだ。イヤだ。イヤなものはイヤだもんな。

それより。えーい、行け。バスよ急げ。

早く家に着いて鉛筆を削りたい。と。

 

家に着いて、コーヒーを沸かし、小さな白い紙袋から、鉛筆と鉛筆削りを取り出します。

すると、ギターを抱えた妖精がノシノシとやって来ました。

「どこいってたのー?」

ハーさんはボーッとした顔でそう言います。

どんな顔かは見えないけれど、確かに私にはそうわかる。

「お前こそ何やってたんだよ」

私がそう言うと、ハーさんは背伸びをして答えました。「ギター練習してたんだ」

「どこで?朝いなかったじゃんか」

「ほら、河原とかさ、山の中とか。人にはまだ聞かせられないもんねぇ」

そう言うと、ハーさんはギターをポロリと弾きました。

私は鉛筆を見ながら答えます。

「ふうん。遠慮みたいな事は知っているんだ?」

ハーさんが私の前に座った。

「なに?それ」

「何って、鉛筆でしょ」

「ふうん」

ハーさんは鉛筆には関心が無いらしく、

「えらいでしょ。ギターの練習してたんだよ。自分は好きな事を好きな所でしてたのです」

と、胸を張って言いました。

「そう」

と、しか答えられない私は黙ってプリンをハーさんと自分の前に置く。

「うわぁ、うまそうじゃん!頂きまーす」

ハーさんはプリンの蓋を素早く開けます。

私は、やっと鉛筆を削りだす。

じょり。しょり、しょり、しょり。

4Bの鉛筆は尖ります。

その鉛筆の先を見つめて、私は独りごとを言うのです。

「柔らかい鉛筆で書きたいんだ。……電話かけようかな……」

ハーさんがプリンを頬張り、言いました。

「そうだね。イヤだって言っちゃえば?今。早くしちゃいなよ。それでプリン食べよう」

私は静かにうなずきます。

妖精は知っているらしかった。

 

流石に「イヤだから」とは言えないから、ただ、ただ、断ろう。

「すみません」「ごめんなさい」そう言って謝ろう。

そして、「ありがとうございました」と言って電話を切ろう。

 

私はハーさんが差し出したケータイを私は受け取るのでした。

 

 

◎お読みいただきありがとうございました。

妖精がいない町 その1

妖精がいない朝。

まったく、私はバスに乗る。

 

朝。

マンションのドアを開けると、曇った空が私の水平に置いた目線の先に降りてきていました。

町に靄がかかっているのです。

そんな天気に私は落ち着く。

晴天よりもいわゆる曇天が好き。

隠された太陽の静かな光が雲と一緒に、「ほらほら、何事も無理をしなくていいんだよ」と、こっちを見ないで言っている。

そんな気がするから。

 

人と会う用事が少しあり、私は隣の町まで行くつもりなのです。バスに乗って。

自分の車で行こうと、最初は思っていたのですが、時間が有り余っている私は、軽自動車のガソリンがもったいなくて、もう何年も乗っていないバスで行くことにしました。

バス代の方が高くつくかな、とも思ってみたのですが、バスに乗るということを思い着いた私はその考えに憑かれてしまっていたのでした。

小学校の時、初めて一人で駅前の本屋さんに行った時の気分。

自由に好きな本の前にいられる事に輝かしい未来を感じたあの気分。

誰もいないバス停に着き、時刻表を確かめる。あと十数分待たなければ。

佇む私は、この平日の昼間を行きかう多くの車を目の前にして、先ほどまでの気分を放り捨ててしまっています。

時間が有り余っているとは言ってみたものの、その使い方は無駄遣いなのではないか、などと。

ひとりの時間が長すぎると、私は自分を追い込む様な事を自身に聞かせてしまう。

 

鋼の妖精のハーさんが見たら、また軽蔑の目で私を見るだろうな。

 

ほぼ時刻表通りにノソノソとやって来たのは、なんだか少し時代遅れのバスでした。

十分に座れる余地のあるその古いバスに乗り込むと、私は一番後ろの席に座り込み、外を眺めます。

私の目に、いつもの近所の風景が、バスの黄みがかったガラス窓を通してフイルムのように映りこむ。

目的の停留所までは30分ぐらいでしょう。

私は続きでハーさんの事を考えている。

 

はがねのようせい。

人間が飽きたから、妖精に戻ったヒト。

私の見るハーさんの顔は靄がかかっているように見えて、今もそれがどんな顔立ちなのかよく分からない。

顔立ちと同じように、ハーさんの素性もはっきりわからない。

なぜ私の傍にいるのか、それがいつからなのか。

ハーさんの生い立ちはいったいどんなものなのだろう。

考えてみると、そういった細かいことを、私はハーさんにあまり聞いたことが無いのです。

ハーさんを目の前にすると、そんな事は頭の中から消えてしまう。

でもこうやって一人この古い形のバスに揺られていると、ハーさんの不思議がいろいろ胸に浮かんでくる。

なんだか、このバスの匂いが懐かしいものだからかもしれません。

 

大きな病院の前の停留所で、何人かの人々が降り、その倍ぐらいの人々が乗ってきました。

やっぱり、病院の人は静かなセピア色。

私の先入観だけれど、やはりそんな風に見えてしまうのです。

ああ、好きな色だ。

はかない優しさだって。幸せじゃないか。

私は自分勝手にそんな事を考える。

もしハーさんにそんなことを言えば、ハーさんはきっと「何だよそれ。そう思う自分が格好いいとでも思ってんだろ」とか言うんだろうな。

ハーさんが言うであろうその言葉を考えて、私はこの固いバスの座席に沈み込んでしまいます。

 

ハーさんの言う事はいつもたいていムカつくのです。

私の怒りの鱗は、きっとデリケートなものだと思うのだけれど、ハーさんはそこのところを、両手で不躾にザワザワと逆なでする。

でもそれは何故かそんなに不快ではないから、不思議です。

うーん、変なものになれてしまったものだ。

流れていく景色はもはや賑やかな街並みなっていて、気付いた私は少し背伸びをする。

そのシーンは、もはやフイルムの様ではなく、きめ細かいリアルなものに変わっているのでした。

目的の停車場に着き、バスを降りると、ビルが隣り合うこの街には、太陽が照っている。

目的地には少し歩かなくてはなりません。

 

今日はハーさんに会っていないのです。

家には居なかったな。どこか遠くでタバコでも吸っているのかな。

歩きながらそんな事を考えていると、待ち合わせの人と会う約束のカフェがあと数十メートル先にせまってきました。

私の足は予定通りに重くなる。

立ち止まり、きっと長い時間になるだろう、と思うのです。

イヤだな。

きっとその人の持ってくる話は私には気に入らないはずです。そう、仕事の話。

何の興味もない仕事の話。

社会で言う勤労という事をしていない私に持ってきてくれる話はきっとありがたいことなのだろうけれども、私には「ありがとう」の文字が浮かんでこない。

ちゃんと断れるだろうか。相手の目を見る自信は、私にはありません。

きっと先方の言うなりになってしまうのではないだろうか。

私は立ち止まっている。

 

踵を返したい私は、約束をしたことを後悔しています。

なぜ電話で断れなかったんだろう、と。

でも約束を破る事に罪悪感のある私はあのカフェに行かなければならない。

そうでないときっとまた、違う後悔に際悩まされることになるんだ。

トゲの道なのに先に進まなければいけないなんて。

 

一歩足を踏み出す前に私の頭はこう言いました。

コーヒーを飲もう。熱いコーヒーを。

コーヒーを飲みにあのカフェに行くんだ。

あ、それで、プリンがあったらついでにそれも注文しよう。

そして、それがいかにおいしかったかをハーさんに言ってやろう

そんな考えで勇気を付けて、私はカフェの扉を開けたのです。

 

 

◎お読みいただきありがとうございました。続きます。

妖精とCを探す その2

フォォォーン、フズゥー、ブォウフフゥー。

妖精が、ハモニカ、吹いている。

 

押入れから引きずり出した山の様なガラクタはそのままに、私とハーさんはテレビの部屋に居るのでした。

ハーさんが持っているのはその中から見つけ出した電気ギターとハモニカ

ハモニカを吹いたハーさんが言いました。

「えーと。ドってどの音だっけ?」

「あ。洒落?」

「え?」

「ドってどの音、って言っただろ?」

ハーさんは答えず、へへへ、と照れている。

私は構わず、話を戻します。

「だから。ドレミファソラシド~のいちばん最初の音だよ」

知っている知識で、そう言ってやった。

「そりゃそうだよねぇ……。あー、思い出して来た。ほら、そっちもギター持って」

ハーさんが、最初からあった生ギターを見て私を促します。

そうそう。

この生ギターのチューニングを合わせるために、押し入れをひっくり返してハモニカを探したのでした。

私は生ギターを手にします。

久しぶりに手にしたギター。

「ギターが二本あれば、いっしょに演奏できるよねぇ」

私には認識できないハーさんの顔がとても嬉しそうに見えました。

そして私は、いつもの癖が出る

「チューニングも出来ないのに、そんなの無理だって」

「又、無理って言った」

その癖を素早く見つけたハーさんがそう言いました。

 

ブフー。ブー。ブブブー。

ブブブブブブブブー。

ブー。

 

ハモニカを吹いたハーさんが、我が意を得たり、という顔をしたようです。

「わかった。これがドだ。シー」

「え?」

私は一瞬判りませんでした。ハーさんが呆れて言います。

「シー。ドのことでしょ」

そう言えばそうだった。ドはCだ。

「知ってるよ。そのくらい。えっとね、コードはこうやって押さえるんだ」

私は、悔しくて、右手でうろ覚えのコードの形をギターの弦に当てる。

そうして痛い右手を離さないように急いで左手で弦を奏でました。

ゲロベヨゥリョョン……。

グチョグチョの音が響き渡ります。

どういう顔だかわからないハーさんが、真剣な顔をして言ってきた。

「だから。チューニングでしょ。まずは」

私は唇を尖らした。けれどもこう思う。

うん。そりゃそうだ。と。

 

「でもさぁ。ギターって基本、解放弦でチューニングしなかったっけぇ?イーとかエーとか」

そう言ったハーさんが、手元に置いたハモニカを眺めながら、チューニングの合った電気ギターでドレミを奏でています。

アンプが内蔵されている電気ギターなんだけれども、電池が無いので小さな音だ。

私も、ド、を弾いてみる。

「おー。あってる。あってる」

私は嬉しくて。ワクワクしてきます。

チューニングが出来ただけで、今度は何でも出来る様な気がしてくるのです。

なんとか2本のギターをチューニングし終わった時、日の暮れるのが早い外が薄暗くなっているのに気付きました。

「買い物行こうと思っていたんだけどなぁ」

私は、ギターが嬉しくて、他の事が面倒くさくなっていた。

「いいんだよ。そんなのいいじゃん、買い物なんか。ねえ、ねえ、合わせてみようよ」

ハーさんが私をせかします。

「え?何を?」

ドレミだよ。押さえられる?ドレミファソラシド」

私は何とかやってみる。

憶えていました。

3回間違えてけれど、憶えていた。

ハーさんがカウントを取りました。

「よし。じゃぁ、行くよ。ワン、ツー、スリー、フオー」

私は妖精と一緒にドレミファソラシドを弾いてみる。

 

ハーさんは意外にきちんとギターを弾けるようで、私はもしかしたらその電気ギターは、やっぱりハーさんのものだったのかもしれない、と思ってみたりしました。

昔、いつだったか、ハーさんは私のそばでギターを弾いていたのだろうか。

私はギターを無秩序にかき鳴らしながらそんな事も考えていた。

すると、私のへたくそな生ギターに呆れたハーさんが、

「だめだなぁ。じゃあさ、歌、歌える?」

と聞いてきて、古いフォークソングを奏でだすのです。

知っている歌だ。

知っている曲だけれど、歌なんか音楽の授業でしか歌ったことのない私は躊躇する。

「又無理とかいうんでしょ」

私の言うことを見透かしてハーさんが言いました。

憎たらしい奴です。

だって私は歌えないのだから。

そんな事に声を使ったことが無い。

声というもの自体、ハーさんと話す以外、ここ数日使っていない。

でも、きちんとしたハーさんの伴奏に、いつしか私は声を出していた。

 

「いいねぇ。気持ちいいねぇ」

へたくそな私の歌声の後ろで、ハーさんと、その伴奏がそう言いました。

 

今、歌をもう少し歌ってみよう。

そして。

今日はやらないけれど、明日、押入れを片付けて机に戻ろう。

パソコンを開いてもう少し自分が作った物語を書いてみよう。

楽しいお話を書いている私。

歌も、もう少し上手くなりたいし、ギターだって弾けるようになりたい。

おお。ギターを弾いて歌っている私。

 

そんな空想をして、私は少し嬉しくなるのでした。

 

とりあえず無理そうなことは一つもないのです。

 

 

◎お読みいただき、ありがとうございました。

妖精とCを探す その1

いろんなものが出て来たぞ。

妖精が押し入れを掻き回している。

 

昔、私は文章を書くのが得意でした。いや、得意だと思っていたのです。

小さい頃は、文章が上手だね、と友達や身近な大人から言われたし、何より物語を考えるのが好きな子でした。

大人になり、何度か小説も書いてみて、いくつかの文学賞にも応募をしたこともあるのですが、結果はどれも最初の選考にも引っかからず、私は得意だと思っていたことが、自信ではなく過信だったのだ、ということを思い知らされたのでした。

でもまた今、仕事がない私は「もしかして」と思ってみたりする。

いまだに空想癖のある私は、誰かが「面白い」と言ってくれる、「すごいね」と言ってくれることを空想して、物語を書いてみようとパソコンに向かい、ワープロを立ち上げました。

しかし、です。

書き始めの3行で、その文章が面白いのかどうか確信の持てない私は、30分と持たず、机を離れてしまう。

 

テレビのある居間に戻ると、ハーさんがいました。

生ギターをかかえているぞ。アコースッティックギター。

その持ち運び用の小さなギターは、何年も前に何かのお返しで頂いたカタログギフトの中から「カッコいいじゃない」選んだもので、ギターというにはあまりにも安いもの。

手にすることもあまりなく、ベランダに面したサッシの脇にずっと立てかけて、置かれたままのもの。

ハーさんがボロンと弦をつま弾き、言いました。

「チューニング、グチョグチョの様であるな」

なんか、わかったような物言いだ。

私は、ギターにはチューニングが必要だ、という事を今思いだしたくらいの腕前なので、その音たちが狂っているのかどうかもわからないのです。

得意なはずの文章に早くも行き詰まり、見つめる先には弾けもしないのに所有しているギター。

私は自分への嫌悪感の代わりに、つま弾くハーさんに嫌悪感を覚得る事にする。

ハモニカあったよねえ」

ハーさんが言いました。

そうだ、私はハモニカにも興味を持ったことがあった。テレビでギターを弾きながらハモニカを吹く人がかっこよかったから。

「押し入れ?」

ハーさんが奥の六畳間を見て言いました。

 

それでハーさんは押し入れを掻き回している。

「どこにしまったぁー?」

そう聞かれても、何処に何を突っ込んだのか、私にはもうわからなくなっているのです。

私はハーさんが押し入れから引きだして来たダンボールの一つを、興味を持って開けてみる。

「なんだったっけかな、この箱。もう全部忘れたなぁ」

なんだかワクワクしている私。

そんな私をハーさんが見て言いました。

「忘れてたんなら、無いのも同じだねぇ」

ハーさんの言う意味は、よく分かるのですが、何かを捨てるという事は、自分の可能性を諦める様な気がして、私はおおよそ取っておく。

ハーさんは、私の考えている事がわかっているのか、もう一つ箱を抱えてきて、私の前に置きました。

「でも、まあいいよね。こういった楽しみ方も出来るし。はい、もうひとつこの箱も。これも何が入っているのかわかんないんでしょ?」

出て来たものは、ほぼガラクタで、これらをしまい込んだ時、自分が何を考えていたのかもわからないようなものばかりでした。

ハモニカみつかった?」

押し入れに頭を突っ込んでいるハーさんが聞きました。

あー、そうだハモニカを探していたんだ。

私はしまい込まれていた箱の中身に興味津々で、今の目的も忘れていた。

こんな感じで、箱の中にこのガラクタたちをしまい込んだ時もすぐ忘れたんだろうな。

もったいない。きっと後で売れる。いつかやる。きっとやる。とか思ったはずだ。

でもそれはすぐ忘れた。

自分はいつも、いつかやる。きっとやると。思っていたんだ。

数えきれないAVケーブル、昔のパソコン。小さなフィギュア、手つかずのCD、薄汚れたプラスチックの小物たち。ビニール袋一杯の筆記具たち。

それらを前にして、なぜか私は何も結果を出していない自分の人生に気がついているのでした。

 

私はわからないことや、忘れものだらけだ。

 

「ナーニをボーッと暗い顔してんの」

ハーさんがまた箱を持って、私の前にいました。

「これかもよ。ほら、ハモニカの吹き方の本が入ってるもん」

私は、我に返り、散らかった部屋をながめます。

「あー、もう。片付けるの面倒くさいなぁ」

もうハーモニカなんかどうでもよくなった私は、この箱が最後と決めて、中に手を入れる。

すると、押し入れに戻ったハーさんが叫びました。

「あった!あったぁ~」

え、なんだ、この箱じゃないの?と思い、私がハーさんの許へ行くと、ハーさんは大きな黒い布ケースを押し入れから引きずり出した。

「やったー!ボクの電気ギターだ!」

「え?」

そう言えば、むかーし電気ギターがあったような。

ハーさんの?私のじゃなかったっけ?

ハーさんは、手を叩いてケースを開けました。

出て来たのは見覚えのある、さっきの生ギターと同じくらい小ぶりの電気ギター。

見覚えがあるぞ。私のだ。

「ハーさんのじゃないよ。私のだ」

「ボクのだもん。タバコ吸いながら引くとカッコいいんだ」

何だかハーさん有頂天です。

「ま、いいけど。ハモニカじゃないじゃん」

私は、呆れて、それ以上主張せず、さっきの箱に戻ります。

手に当たった小さな青い四角の箱。

あった。

ハモニカが見つかった。

とりあえず、今、探していたものは見つかった。

 

 

◎お読みいただき、ありがとうございました。

妖精と雪の道 その2

ざくっ!ぼふっ!ずずずずず。

妖精が雪を運んでいる。

 

また雪がちらついてきた午後。

スコップを買って家に帰ってきた私は、駐車場の雪かきを始めました。

妖精のハーさんも一緒に。

勤めていたころ、上司に言われて仕事場の駐車場の雪かきをしたことはあるのですが、自分の所の駐車場を雪かきするのは初めてです。

雪かきどころか、この土むき出しの駐車場、ゴミ拾いをしたこともなかった。

 

私の住む古いマンションの駐車場は今日は車が随分と停まったまま。

「みんな仕事休んでんのかな」

私がポツリと言うと、ハーさんが私の軽自動車の屋根に積もった高さ20センチはあろうかという雪をダンボールの切れ端で下に落としながら言いました。

「そんなわけないじゃん」

私は、ハーさんとは反対に回り、車を挟んで屋根の雪を落とす。

「なんでわかるの?こんな雪だもん。みんな仕事なんか行かないんじゃないの」

「みんなあなたとは違うんです

私は手を止め、ハーさんを睨みつける。

「どうせ失業者ですよ。社会不適応者ですからね」

「いいじゃん。人と違ったって」

ハーさんはそう言うと、落ちた雪で玉を作って私に投げつけて来るのです。

私は雪玉を避けると、スコップを取りに歩き出す。

「あー、はずれたぁ~」とハーさん。

そんな声のすぐ後に、私の背中に雪玉が当たります。

ぼすっ。

続けて頭にもあたった。肩にも。太ももにも。

ぼすっ。ぼごっ。ぶふっ。

私は無視して歩いてゆく。

 

小一時間、自分の軽自動車の周りの雪を書いた私は、車の中に座り、一息ついていました。

ハーさんは雪の中に立ち、タバコを一服している。

まだちらつく雪。

まだ降り続けるのかな。

この駐車場の中、自分の車の周りだけ雪がかかれている。

ハーさんは、タバコをポケット灰皿に入れると、スコップを手にしました。

隣の車の周りを雪かきし始めたのです。

私は車の中から出る。

 

「そんなん、いいのに」

私は車の後ろ、おろして山になった雪を蹴飛ばしながらハーさんに言った。

「まだ降るしさ、キリがないよ」

ハーさんは黙って人の家の車周りを雪かきしている。

「かいた雪どうすんだよ。どこにも捨てる所ないぞ」

ハーさんが振り向いて指さします。

私はその方を見る。

「何?」

「川」

「川?」

そう言えば、駐車場の横には小川が流れてたのでした。

「川に捨てるの?」

「そう」

「妖精のくせに、えらく現実的に物事考えるねぇ」

「へへへ」

へへへ、じゃねえよ。まったく。

 

私はハーさんの指導の許、かいて山になった雪をダンボールに乗せて、川の方へ引きずってゆきました。

十往復ぐらいしたところでダンボールはグチョグチョンに引きちぎれ、こんな運動に慣れない私の体もボロンボロンに破れそうになる。

「はい、もうおしまい!これ以上出来ないよ!」

それには答えず、ハーさんは疲れたらしく、雪の上に寝転がった。

私は怒鳴る。

「はら、また。濡れちゃうよ!」

「妖精だって疲れるもん。まだ人間抜けきってないし。あーあ、あーあ、あーあったら、あーあ」

ハーさん、ブツブツ文句を言いだした。

呆れた私は追い打ちする。

「自分で始めたんだろ!妖精のくせに文句言うんじゃないよ」

「なんだよ!妖精妖精って!妖精だって疲れるんだよ!」

ハーさんはスクッと立ち上がると、その認識できない顔を膨らませて、向こうへ行ってしまうのでした。

 

「あらあら、お疲れ様」

ハーさんが見えなくなった私の背中に、女の人の声が当たります。

ハッと振り返ると、何度か見かけたことのある同じマンションのおばさんでした。

「すいませんねぇ、うちの車の前まで、あたしがやればいいんですけれど、もう体がついて行かなくて。でも、まだ雪降ってるし。ね、もうこれ以上いいですから。本当にありがとうございます」

おばさんが申し訳なさそうに頭を下げてくれているのです。

「あ、はい、いえ、ついでだったものですから」

同じマンションに住んで、何回か顔も合わせて、名前も聞いたことがあるはずなのに、今、その名前を覚えていないおばさんを前に、私は気の利いたこと一つも言えなかった。

 

「風邪を引くから」とおばさんに言われて、私は家に帰りました。

長ぐつの雪を玄関で落としていると、玄関のチャイムが鳴ります。

そのまま扉を開けると、たくさんのミカンとカボチャが飛び込んできた。

おばさんが「おつかれさま」と、くれたのです。

「あ、はい、すいません。ありがとうございます」

お礼を言うのもドキドキの私は、頭を下げて言いました。

「じゃぁ、お父ちゃんの晩御飯作らなくちゃだから。しょうがないよねえ、ほんと」

何がしょうがないのかよく分からなかったけれど、そこは問い詰めず、おばさんは帰ってゆきました。

 

居間に戻ると、ハーさんが電気ストーブの前でお茶を飲んでいやがった。

おばさんの事、ミカンとカボチャの事を話します。

「やったねぇ」とハーさん。

「別にお礼してもらうためにやったんじゃないよ。お前だってそうだろ」

私がそう言うと、「でもやったじゃん」とニヤニヤ。

私は気になったことをハーさんに話します。

「あのおばさん、おしゃべりしたかったのかなぁ」

「そうなの?」

「だって、たいていおばさんっておしゃべりするじゃん」

「じゃぁ、今度すれば?」

私はミカンをハーさんに渡し、「めんどくさいなぁ」と言って座り込む。

「めんどくさいねぇ」ハーさんがミカンをむきながらそう言いました。

2人して、貰ったミカンを一つずつ食べます。

「おいしいね」私は思わずそう言った。

ハーさんの見えない顔が笑って言います。

「ねー、ミカン、どっちがキレイに向けるかやろうよ!よーい……どん!」

私とハーさんはミカンを素早く手にすると、二人で一生懸命、その白い筋を取るのでした。

 

 

◎お読みいただき、ありがとうございました。